結婚後も同居していた歳年上の兄が家を立てることになった。
当時大学生だった俺はおふくろの命令で建築現場に飲み物やら茶菓子やらを差し入れするはめに。
そこでの会話。
俺「ドリンク持ってきました。どうぞ休憩にして下さい。」
職人さん「お、兄ちゃんいつもすまないね。」
そしたらやけにちんまくてタオル被った男の子が
「ダイエットコークないの」
俺「ないんですよ。普通のコーラじゃ駄目ですか」
男の子「甘いもんばてるから嫌い。次からダイエットコーク買ってきてよ。」
生意気なクソガキだなー苦手だと思ってたのが嫁になるとは思わなかったです。妻とめてした会話から誘導されて来ました。兄が俺も憧れていた幼馴染と
結婚してしばらくは実家に同居していた。
控えめにしてたのだろうと思うのだがギシアンが隣の部屋の俺には丸聞こえで、
毎日悶々としていたところ、親が半分金を出して近所に新居を経てることになった。
学生と言っても毎日だらだら過ごしているだけだし、現場が駅に向かう途中にあったので、
職人さんへの差し入れは必然的に俺の役目になった。
嫁は棟梁の娘で、親父さんの手伝いをしていたのだが、
ガングロとかじゃなく土方焼けにタオルを被った作業服姿で、
しかも他の職人から「シゲ仮称ボード持ってきて」なんて呼ばれていたので、
俺はてっきり見習いの使い走りかなにかだと思っていた。
ダイエットコーク買って来いなんて随分生意気な奴だなと思ったけれど、
出来るだけ波風立てないように生きていくのが信条なので次からは必ずダイエットコークを混ぜて持っていくようになった。
ジュースだけじゃなくておふくろが漬けたお新香やら煮物も持っていってたので、
翌日の差し入れのためにタッパを回収するのも俺の仕事で、
毎回職人さん達が一服終わるまでぬぼーっと現場の隅で本読んだりしていた。
ある日、シゲが何思ったんだか寄って来て、
「何読んでんの面白い」
と尋ねてきた。
「『集合と位相空間』。面白くはないよ、教科書だし。」
そう答えると何だか変なツボに入ったらしくてゲラゲラ笑い出した。
「何学校じゃないのに教科書読んでんのそんな勉強ばっかしててアホにならない」
失敬な奴だなと思いつつも読んでおかないと講義についていけない旨を伝えた。
「ふーん。授業聞いてるだけじゃ駄目なん」
「駄目。自分でも頑張らないと。」
シゲは全然納得してない様子でコーラ片手に作業に戻っていった。
翌日以降も何だかちょろちょろまとわりつかれて、
大学は楽しいかとか、勉強面白いかなんてことばかり聞いてはふーんとした顔で聞いていた。そんな小難しい本ばかり読んでたら頭おかしくなるからこれ読みなって差し出される、
何だかそこらのおっさんが読むようなゴラクとかアクションとかの漫画を丁重に断ってキレられたりしながら、
何だかちょっとづつ仲良くなっていった。
夏場でかんかん照りなのでシゲにだけアイス買っていって、
「しょうがねーなー、シゲまだガキンチョだからアイスかよ。」
「腹壊してうんこもらすなよ。ゲラゲラゲラ。」
明らかに他の職人とは一回り近く下だし、可愛がられてっぽかった。
でも扱いはかなりぞんざいだったので俺はシゲがなりの小さい男だと思っていた。
「あのさー、あたし大学行って建築勉強したいんだよね。」
ガリガリ君食べながら唐突に言われた。
「大工も仕事減ってるしさ。設計から請け負った方が稼げるんじゃないかなって思うんだけど。」
大いに偏見を持っていたのは失礼極まりないないのだが、
シゲの口からこんな言葉が出てきたことにびっくりした。
それ以上に一人称があたしだったのに驚いた。
「あたしって・・・シゲっておかまなの」
的外れな受け答えに、
「ばっかあたしこれでも女だよ」
男であることに微塵も疑いを持っていなかったので腹にパンチ入れられても痛くないくらいだった。
「見ろ、ボケチン。」
タオル外すとピンでまとめた長い髪が現れた。
「ロンゲの兄貴ってわけじゃ・・・ないんだよね・・・」
「女だっつってんだろ釘打ち機で穴空けんぞ、コラ」
この言葉遣いで女だって信じろって方が無理だ。
その時はそう思った。「建築科か。頑張ればいけるんじゃないの」
所詮他人事だし、適当に答えると、
「あー、あたし高校中退なんだよね。大学はムリっしょ。」
高校中退
俺的には有り得ない世界だったのでドン引きして、
「そうだな。中退じゃ難しいかな。」
とお茶を濁してやりすごそうとした。
「そこを何とかなんないかね」
「何とかって言っても何ともならないんじゃないの」
「そっかー。」
シゲはしょんぼりして足で地面をっ飛ばし始めた。
あまりのしょげっぷりにちょっと気の毒になった。
「そうだ大検大検受かれば中退でも大学入れるよ」
咄嗟に思いついて口にした途端シゲが顔を上げて俺をじっと見つめた。
「マジで」
「うん。マジで。」
「すごいじゃんなんか嬉しい」
ここからシゲと俺の受験戦争が始まるとは夢にも思わなかった。
「でさ、お父ちゃんに大学行きたいって話してくんないかな」
何で俺がそんな面倒臭いことしなければならないのかわからず躊躇していると、
「やっぱ大学の大事さって大学生に言ってもらうのが一番効くと思うんだよね、うん。決まり。」
シゲにずんずん手を引っ張られて弁当を食っている棟梁の所に行った。
「お父ちゃん、この人からちょっと話があるんだけど。」
別に俺から進んでする話はない。
まごまごしていると、
「なんだなんだ。彼氏様のプロポーズか。ガハハハハ。」
この娘にしてこの親あり。
冗談きつ過ぎて眩暈がした。
「ばっか。ふざけんな。そういうチャラい話じゃないよ」
怒るシゲに尻をバシバシ叩かれて早く言えの催促。
仕方が無いので口を開いた。
「えーっとですね。シゲさんがですね。大学に行きたいので大検を受けたいって言ってるんですが、お父さんにお許し願いたいと交渉を頼まれまして。」
棟梁はきょとんとしてた。
「大検てなんだい」
「事情があって高校卒業出来なかった人でもこの試験に合格すると大学受験出来るようになるんです。」
かいつまんで説明する。
途端に、
「無理だろー。シゲ根性ないもん。高校年で辞めちゃうし。無駄無駄。第一お前勉強嫌いだろ。大学行って何すんだ」
豪快に笑い飛ばされたシゲをそっと除き見るとうつむいて泣きそうになっていた。「あのですね。シゲさん、大学で建築の勉強したいそうなんです。建築士の資格取りたいって。」
喋れなさそうなくらい小さくなっちゃっていたので、俺が何とかシゲの代弁をした。
「設計とか出来るようになってお父さんの仕事手伝いたいそうです。」
途端に棟梁の顔色が変わった。
「そんなんはいいんだよ。大工は腕一本で食ってくんだから。ガキの手伝いなんかいるかってんだ。シゲも御託並べる前にまず叩き大工卒業しろ。」
交渉決裂。
「一生懸命言ってくれたのにごめんね。」
シゲに謝られた。
二人で黙ったまま職人さんの飲み終わったペットボトルやらタッパを集めて回って帰宅した。
次の日、差し入れを持っていくと現場にシゲはいなかった。
「ちょっといいかい。」
飲みものだけ置いて帰ろうとすると棟梁に呼び止められた。
「昨日の話なんだけどさ。うちのガキでも大検っていうの受かるもんなのかね。」
当時俺も20そこそこで親心なんてわからなかったので棟梁の言葉を計り兼ねた。
「勉強すれば何とかなるんじゃないんですかね。」
「やっぱり兄ちゃんは塾行ったりして大学行ったんだろ」
「はぁ。予備校行きましたけど。」
それを聞いた棟梁が腕組みして大きく溜息をついた。
「問題はそこなんだよな。シゲ人見知り激しいんだよ。高校も続かなかったしな。懐いてんの兄ちゃんくらいだわ。」
そういうもんなのか全然そうは見えなかったけれど。
そう考えていると、
「物は相談なんだけどさ。兄ちゃんシゲに勉強教えてやってくれねーかな勿論ただとは言わねーから。頼むよ。」
棟梁体ごっついし、片手に丸ノコ持ってるし、断ったらヤバゲな感じがしたので二つ返事でOKした。その日の翌々日からシゲが勉強をしに家に通ってくることになった。
俺も学校があるので週3回、午後5時から10時まで。
それまで通っていた家庭教師のバイトは暇をもらった。
高で中退したと聞いていたので失礼ながら相当頭悪いのかと思っていたら、
これが中々理解力もあるし、レベルの高い例題もすんなりこなしていくのでびっくりした。
「何だ。シゲ勉強出来るじゃん。」
「だって辞めてからも勉強してたもん。」
とつとつと話し始めたのを聞くとシゲは勉強は嫌いじゃない、むしろ好きらしい。
「じゃあ、学校辞めなきゃよかったじゃん。」
言った途端、シゲの顔が急に曇った。
「うっさいな。色々あんだよ。」
この時は知る由もなかったがシゲが退学した原因は後々知ることになる。
大検用テキスト周終わって、何とか目処がつき始めたので英語のリスニング問題に取り掛かった。
いつもダイニングの対面に座って教えていたのだけれど、
リスニングの時だけは椅子をちょっとずらしてテーブルの上のデッキに右耳を近づけるようにして聞いていた。
「お前まっすぐ座って聞きなよ。姿勢悪いとカンニング疑われるよ」
格好が面白くって思わず笑いながら言うとシゲがあっけらかんと答えた。
「言ってなかったっけ私左耳聞こえないんだよ。
学校でビンタされて鼓膜破れちゃってさ。医者行かなかったんで駄目んなっちゃった。」
「ちょっ、馬鹿。医者行けよ。鼓膜くらい直んだろ。」
「そんなことしたら親に心配かけんだろ。わかってねーなー、もう。」
「ごめん・・・」
謝るしかなかった。シゲも死…